0061.
人は争う。どんなに小さな場面であろうと、どんなに大きな場面であろうと、人はこの愚行を繰り返す。想像力に欠けている為に、他者を否定しようとする為に、自らの落ち度を無視し、或いは落ち度を隠蔽し認めない為に、自らを省みるだけの心理的な遠さを持ち合わせていない為に、或いは何か隠された別の理由の為に、混乱を機会とする古来よりの賢しい智恵に従って、無秩序が嫌いな為に、理由は様々だが、兎に角起こることは起こる。果てしなく、飽きもせず、延々と。だから、何時か私がこう叫んだとて、一体誰が責められようか、「もう沢山だ、やるならどれだけやっても構わないが、取り敢えず私に見えない所でやってくれないか!」と。


0062.
夢を見た。活力に満ち、しかも全身に智慧を漲らせ、それを放散している*類い稀なる尊敬すべき人物が、自らもまた一箇の肉体であることを露呈させてしまった場面だ。その時私は酷く赤面し(或いはした振りをして)、目を背けていたのだが、その後再開された問答は何とも噛み合わない、筋の通らぬものだった。其処で起きてみると酷く疲れていた。

*その人には確かに智慧があったが、別に無条件的な正しさを備えていたと主張する積もりは全くない。寧ろ私は彼の説には真っ向から反対していたのだが、真理に対する彼の態度には非常に感銘を受けていたのだ。


0063.
現在、この花粉症は私の不倶戴天の敵と化している。涙とクシャミと鼻のムズムズで、何ひとつまともに考えられやしない。退屈に抗し得るこの唯一とも言うべき武器を鈍らせてしまったら、後には性器以外に一体何が残ると云うのだろうか。


0064.
闇は情報を遮断するが故に恐怖を齎すのだと人は言うが、この言い方は一方的である。思い出しておかなければならないのは、感覚とは種々雑多の刺激の中から情報を集めるものではなく、刺激を遮断して有意味な情報と化する過程なのだと云う発想である。世界は途切れることのない多様性の大渦である。個体は存在の大海原の寛さに対応し切れるものではない、其処で自分の扱えそうなものだけを自らにとっての情報として選んで残りは無視すると云う方策を採ったのである。五感の裡で人間の文明(或いは分明)にとって最も重要なものは視覚であるが、我々が注視する率の高いものが視覚的情報であると云うことは、言い換えれば、我々が世界の大部分を無視していられるのは、丁度一篇の音楽が背景の雑音を全て掻き消してしまう様な具合で視覚的情報に拠るところが大きいと云うことでもある。闇の中では、その無視されていた世界の残りの部分が蠢き出す。分節化される以前の存在が、自らを主張し始めるのである。それに怯えると云うことは、我々が如何に普段切り刻まれきちんと調理された存在に慣れ切ってしまっているかの証明の様なものである。


0065.
私は時に「くどい」と言われることがあるが、凡そこの世に条件付きでない言明なぞある筈もないのだ。
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