0056.
無知は無垢であるが同時に罪である。このことに関する言い訳は一切認められない。


0057.
ヤスパースとサルトルの関係は、後期のシェリングとフィヒテの関係を思い起こさせる。己の限界に対して自覚的であると云う意味では、それぞれ前者の方が利口ではあるが、それにしてもやはり「向こう側」から語ることを敢えてしないのは、自らの語り口が歴史に巻き込まれて不完全になるのを恐れたからなのか、それともそうしたことをするだけの面の皮の厚さが足りなかったのか、それとも飽く迄自分の領域からはみ出さないだけの謙虚さを備えていたからだったのか、それとも単に私が無思慮で不徹底と責められるべきなのか。


0058.
性差によってディファインされたものとしての女「性」は、ひとつの面*だけを持っていることを許されない。生殖競争と云う馬鹿馬鹿しいのこ大ゲームで生き残る為には、女「性」は幾つもの面を使い分ける術を覚えなければならない。「人間」「恋人」「妻」「母親」「娘」などと云う一通り一般的なものだけで済まされるものだと思ったら大間違いである。生命の連鎖は常に手の込んだ一見奇ッ怪極まりない騙くらかしをやらかすものなのだが、自己欺瞞と云う点に関しては女「性」はこの道の大家である。役割の複雑化は選択肢の増加を意味し、選択肢の増加は確かに自由を意味しはするが、それは絶えざる分裂を覚悟しての上のものでなくてはならない。其処にある葛藤を単に無視して通り過ぎてしまおうとするのは、あり得ざる「無垢」への逃避に過ぎない。女「性」が精神的存在へと成る為には、このことについての自覚がどうしても必要である。

*わざわざ注釈するのも何かと思うが、此処では、「顔」「仮面」の意でこの言葉を使っている。人格の同一性と云う厄介な問題に首を突っ込まない場合、ペルソナが多数より成っていることは自明の事柄である。


0059.
例によって例の如く、連中が欲しているのは自分達の日常に関する言い訳であり、それに対する自らの鈍感さである。それに皮肉のひとつでも挿んでやれば、さも自分は物事の裏側を知っているんだぞと云う印象を与えることが出来る。口の開くことの愚かしさを知っている者は、従って、結果的に何も言わないのが最上の方策と云うことになる。


0060.
私が日本国憲法の様な諸原理を信奉するのは、それに究極的な価値を認めているからでは決してない。寧ろ私は、それらは単なる踏み台であり、余計なことを考えなくても済む様になる為の捨て石だと思っている。それらはその不完全さ暫定さに於て(つまり、理性のすることだと云う意味に於て)大いに信頼し遵守すべきものである。このことを知って、私がそれらを蔑ろにしていると批難するのは間違っているし、過剰な人文主義者と嘲ったり敬して遠ざかったりするのも見当外れである。なに簡単なこと、要はこう云うことなのだ、「いい加減にしろ、世界にはもっとやるべきことが山と待ち受けているのに、星空は解かれるべき神秘を孕んで凝っと我々を待っているのに、こんな詰まらないことでいちいち煩わされなければならないのは沢山だ!」。何せ如何に精神的に生きている者とて、食べたり飲んだり寝たりするのを止める訳にはいかないのだ。私が卑近なもの全体に対して一律の秩序を求めたとて、それ自体で責められる謂われはない。
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