0051.
私が当たり前の事柄についていちいち言い立てるのは、私がそれらに究極の立法的な価値を認めているからでは全くない。それらは寧ろ踏み台や捨て石の類いに過ぎない。世界にはもっと心を煩わすべき様々な重要なことがあると云うのに、古来からの相も変わらぬ問題に労力を割かれなければならないのに我慢がならないだけなのだ。
 私が人類の他の成員に対して万が一でも役に立つ様なことを口走ったとするならば、それは彼等のことを思ってのことではなく、彼等に向かってこう怒鳴りつける面目を立たせる為なのである。「もういいから私のことは放っておいてくれ! それとも何かね、文句を言わずに私に協力してくれる者がいるとでも云うのかね。その場合は歓迎するかも知れんがね、そうでない場合はさぁ、帰った帰った!!」
 この上で、私は自分が道義的な人間だと認めるのには吝かではない。


0052.
私はよく、自身の精神の怠惰に対して腹を立てるが、恥ずべき哉!(いや、ここでは嘆くべきなのだろうか?)そうした時間は加齢と共に、刻一刻と短くなってゆく様なのだ………。


0053.
「有名人」とやらが死ぬとその告別式やら何やらの模様がテレビで中継されることがある。その時に思うのだ、「見ろ、他人の作り上げた鋳型に押し込まれそうした生き方に振り回されて生きた者の末路はこんなものだ、こうして死後にいらぬ辱めを受け、他人に人生を総括される羽目になるのだ」と。………だが人は自覚的にせよ無自覚的にせよ結局は他人の刻むリズムに合わせて踊る為の仮面を被らなければならないのは同じことなのだ。仮令傍目にはそれがどんなに馬鹿馬鹿しく見えようとも、眼差しの時代 に生きる我々は須く、デミルのカメラに向かって歩いてゆくグロリア・スワンソンの様なものなのかも知れない。だがそれは果たして悲劇的 に成り得るものなのであろうか………?


0054.
ミスター・スポックは言う、"Logic, logic, logic………logic, is the beginning of wisdom, not the end." だが、こんな台詞を吐く域には人類はまだ達してはいない。だから私はこう言おう、「もっと論理を、論理を、論理を!」現段階に於いては、これはどれだけ言っても言い足りると云うことがない。


0055.
近頃オルテガの『大衆と反逆』を読み返して、それが実に魅力的な展望に満ちた論考だと云うことに気が付いたのだが、その本はそれまで実に何年もの間、私の書棚に鎮座ましましていたのだ。こうしたことはよくあることだ。本読みにとっては、こうした形での出会いは何度も経験しなければならないものなのだ。が、この様なことがある度に私は思う、こんな調子では、私がこれまで実際に「読んで」きた本の数は何と高が知れていることか。それに比べてこれから先読まねばならぬ本の、そして永久に読まれずに終わってしまうであろう本の如何に多いことか。活字と云う他性への扉の向こうに新たな世界を発見したとしても、私は「ヘウレーカ!」と叫んで喜ぶことは出来ない、寧ろ自分の無力を、阿呆さ加減を思い知って憂鬱になる。本は食べ物と同じで、単なる奢侈にも堕することは出来るが、基本的にそれは必要なものである。私の様な人間は、読みたいから読むのではなく、読まなければならないから読むのである。食べ物を採らなければ肉体が、本を読まなければ精神が死んでしまう。だが両者の大きな違いのひとつは、食べ物を採ることには自然と定められた限界があるが、本を読むことにはそれがないと云うことである。人は本の読み過ぎで健康を害することはない。だが私に対して実際に開かれることになる知の地平の大きさに比べれば、その彼方に秘められた可能性は殆ど無限大と言ってよい。確かに私は無能である。だがそれは拭うことの出来ないである。
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