0047.
昔から何より私の頭を捕えて放さないのは主観と客観の問題であるが、我々はそれにケリをつけることは出来ない。人間の認知系がこうした類いの問題を解決する様には恐らく出来ていないからだ。各々が独自の説明原理を構成するふたつの対立物に、同一次元で勝敗をつけることは出来ない。若しそれが為されたとしたら、そこでは何等かの詐欺か都合のいい無視が働いているのである。この点で弁証論者達は正しい。だが気をつけねばならないのは、この過程に何か精神的な方向性が、進歩の理念の支配が働いていると考えることは出来ない、と云うことである。我々が期待してよいのは唯、歴史に学ぶこと、過去の既に通った道のりを記憶し、自分達がこれから辿ることになる道のりと比較し、そうして自分の視野を拡大することによって自分の選択肢を理論的に増やしていくことだけである(或いは、減らしていくと言った方が適切かも知れない。と云うのも、問い掛けの基本的なパターンはこの二千五百年もの間に或る程度出尽くしており、我々の殆どはその模倣パロディによって現行のパターンを成して論じているからである)。


0048.
日本国憲法第九条を巡る問題を、最終的に、何処からも苦情の立てようのない様に解決する方法がひとつだけある。全世界の国々がひとつ残らず、第九条と同じ主旨の条文を、自国の憲法に書き入れればよいのである。

 ………現時点でこんなことを本気で口に出して言おうものなら、冗談としか取られないか、奇人か世間知らず扱いされるかどちらかである。人類の精神が自らの手にした力の大きさに似合わない偏狭な党派性から今だに抜け出していないことをその身で確認してみたいのならば話は別だが、声高に繰り返される「現実」や大衆的知性を前にして当たり前の良識を働かせてはいけない。自動車にシートベルトを装備するのが怪しからんと思われていた時代もあったのだ。本来ならば眼鏡を掛けていなければならない近視眼の者達に対してどしどし免許が発行されていようが、今更驚いてはいけない。「あれそれの需要があるのだからこれだけの自動車がどうしても必要だ」と云う目の前の切迫さえ切り抜けられれば、その後に当然やって来る日常化した大惨事と云うより大きな切迫のことなぞどうでも宜しいのだ。世界平和にとって、テロなぞ真の恐怖ではない。卑しくも多少なりとも想像力を持った少数者が真に恐れるべきなのは、それを巡るゴタゴタが覆い隠してしまうであろう———否、現に覆い隠してしまっているものの方だ。このことをよくよく心に留めておくのだ。恒常化したアンバランスは、それが世の常態と思われるものなのだ。これに憤ってはいけない。これに憤ってはいけない。


0049.
「人間は、………(中略)………考えるにも関わらず行動するのである」
———マンハイム『イデオロギーとユートピア』2-2
「観念は、自らの実現を勝ち取るひとつの予言である」
———ホワイトヘッド『観念の冒険』第三章
声「いいぞぅ、やれやれぇ!」


0050.
人が憂鬱になるのに理由はいらない。若しどうしても何か日常的な言語で理解可能な因果関係が必要なのだと考える者がいたとしたら、そちらの方がよっぽどどうかしている。

 ………と、これが健常な憂鬱者の反応である。「原因」と称されるものは全て言い訳に過ぎない。
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