0036.
我々は通常作られた架空の人生を消費するが、それが我々自身の人生を消費することになることに関しては無頓着である。これに対する自覚は横すべりすることが多い。


0037.
分裂の中に生きる勇気を持つこと、絶えざる没落の直中にあって歓喜の産声をあげることを恐れないこと、鏡の背後からこちらを覗き込むものと視線を合わせること、これらは適応せる意識に於て倫理節目を語る為の第一条件である。


0038.
消費用の財として外化された、「共有された時間」と云う幻想………それらに対する過度の執着が、「保存」と云う習慣を生む。しかし表面化しないその深層には、それらのモノに対する根強い不信が横たわっている。これと顕示的消費/浪費との相違は、正しく理解しておかねばならない。


0039.
肉体に対する嫌悪=賛美に対しては、一般に、無視を以て答えるのが宜しい。肉体の美醜優劣もまた、顕示的浪費の一形態であるからである。現代に於てはこれが甚だしい。


0040.
命あるものの営みとして、最も退屈にして最も重要な事柄———食べること、先ずこれを何とかすべし。話は全てそれからだ。陳腐な言い回しだが何度でも繰り返し言おう、「人はパンのみにて生くるに非ず、されどパン無しにては生くる能わず」。人々が分明の中に住まう為には、先ず明日の心配をせずに食べ、清潔に生きられることが第一の課題である。当たり前のことだが、我々はまだその極めて原始的な恐怖から逃れられてはいない。このことを自覚し続けるのには努力が———或いは才能が要る。日常と云う檻は、我々をして世界の裏側に目を向けさせることは滅多にない。誰かが飢えの苦しみを、明日への不安を、忘れ去られた怨念を、果てしのない悲しみを、倦怠の醜さを、夜の恐怖を思い出させることは絶対に、絶対に必要だ。これらの基本形は食べることに存するのであり、より洗練された形式に於て精神に選択肢を与える為には、先ず腹を満たさねばならない。


0041.
見捨てられた者、見逃された者、それらはあってはならない………。
 「全知全能の神」と云う言い回しは存在するのに、「全てのものに眼差しを注ぐ者」と云う意味に於て神を形容する言葉が無いのは些か片手落ちである。「全てのことを知る」と云う意味だけでは不完全なのだ。「知る」と云う言葉は主客の別と云うニュアンスが含まれ過ぎている。敢えてこのことを言い表わすならば「全視」、「全照」、或いは「全見」の方がいいだろうか………。
inserted by FC2 system