0032.
仮構された無垢は逃避である。それは精々のところ、失われた一義的同定に対する憧憬を一時掻き立てるものに過ぎない。
 それは現実的な実現を望まないと云う点に於て、生半可な希望よりはまだましである。
 がしかし、それは時として深く長く人の心に巣食う力を持つと云う点に於て、遥かに質が悪い。


0303.
 問「『然り』と諾うことは果たして罪であろうか?」
 答「全一性に於てそうすることは罪ではない。しかし全一性の無視若しくは欠如に於てそうすること………これは罪であり、裏切りである」
 問「では全一性に於て『然り』と諾うことは果たして罪であろうか?」
 答「当面は差し当たって罪ではない。だがそれでは不充分であると云う意味で、罪であり得る
 問「では何が充分と言えるのか?」
 答「否定を排除すると云う意味に於て、肯定もまた欠如の一形態である。肯定も否定も存在し得ない境地、それこそが最初の最終目的として定むるべきところのものである」

 声「さて、これが問い掛けの第一の基本形である。ここから先は各自の創意工夫による。何か質問は?」


0034.
通常の段階に於ては、最終的に問われるべき問題は、が如何にして発生したかと云うことである。*

*本来ならばここでを問題にすべきではないかと思う向きもあろう。即ち、の発生は同時に其処に於て同定されざるもの、非-一の発生をも意味すると云う見解からである。しかしそのことは今は問うまい。我々が通常の手続きによって遡及し得るのは、多から単へと云う手順を踏んでのことである。のみを問う場合、我々は手順の前後も同時に問わねばならず、このことは事態を複雑にし過ぎる。


0035.
公民としての心得を述べよう。
 死の眼差しが己に向いている裡はまだいいのだ。その段階ではまだ周囲の目に対して偽装が利くからだ。破綻する可能性は常に控えているが、物質的な死を迎える者は自分ひとりで済むかも知れない。
 が、それが漏れだす可能性を自覚しつつも己を非なる世界へと曝け出し、その眼差しを他者であった者へと向ける者は、最早その罪を免れ得ない。少なくともその者は、健常な対話の埒外にある。自覚しつつそれを行う者は、来るべき対決に備え、他の一切を顧みない覚悟が必要だからだ。*

*尚最初から知らずにいる者、己の欺瞞を無自覚の儘真実とするより他に能のない者、これらは考慮するに値しない。
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