0021.
何故、形態が発生したのか? 何故、パターンが、共振が、焦点が、組織化が、寄り集まることが、があり得るのか………。は如何にしてを獲得したのか。形態を別の形態で置き換えることは出来る。それは今日の我々の健常な「知識」の在り方だ。しかし、それを最終的な回答と見誤ってはならない。それは未だ我々にとって「不可知のヴェールに覆われている」どころか、そもそもそのヴェールがどんなもので、何処のあるものなのかさえ知られてはいないのだ。
 誤解して貰っては困るが、私は必要以上に秘密めかすことを勧めている訳ではない。徒に不可知性を称揚することを私は好まない。それは可知のものであるかも知れない。それと同様にして、それが不可知のものであるかも知れないと云う可能性があると云う事実を指摘しているだけだ。可知にしろ不可知にしろ、それは今日の我々の「知」の在り方とは異なった存在様式に於て知られるものだろうと云うことだけは容易に想像がつく。その意味では、今日的な意味での「不可知」性が暴露されると云う可能性は充分に高い。が、それは原理的な不可知性でなくてはならない。「神はサイコロを振らない」と固執したアインシュタインと同じく、私は古風な人間だ。従って、それは「知られない」と云う立場に於て知られなくてはならない。もう一度確言しておこう。それは知られなくてはならない。眠りに頽洛した儘でありたい者には、私はそれを止めはしない。只不快に———機嫌のいい時ならば哀れに———思うだけだ。が、人間は何時か目覚めねばならないと云うことを知ってしまった者として、その一点をからどうしても退くことは許されない。


0022.
私には常識的な意味での「人生設計」なるものはない。将来についての私の具体的なヴィジョンは全くお粗末なもので、お話にならない。が、そんな私でも、生涯を賭けて願っている一事がある。可能な限り、この世の誰よりも正気でいることだ。これさえ叶うならば、後はどうでもよい。後は全くどうでもよい。所詮、みすぎよすぎなど、私と云う肉体を存続させる為にしか役に立ちはしない(———世の大部分の人間にとって、それが焦眉の急であることは承知しているが、自分の率直な気持ちとして、それらは全く退屈である)。


0023.
友情と恋愛が連続性を持つなどと信じている色情狂共に真面目に付き合う必要はない。


0024.
卑しくも我等の時代に於て、善とは須く偽善であるが、偽善もまた善である。  ———少なくとも一個の公民として、我々は断固そう演じるべきである。


0025.
「経験は思考に先立つ」と云う命題は、イギリス的な意味に於いては正しいが、アメリカ的な意味に於いては全くの誤りである。それはハリウッド的な短絡化だ。  ———さて我々はこの命題を止揚すべきであるか、それとも無意味化すべきであるか?———この問いかけは、世界の直中にあってその歯車を廻さなければならぬ者にとっては時として実に切実な重要性を持つ。
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