0017.
(なま)であること加工されていないこと剥き出しであること———これらは、嫌悪の識閾値を測るひとつの有効なメートル原器であり得る。が、それが唯一のメートル原器でないことがあり得るのは如何にしてなのか………。


0018.
色惚けの気違い共と話して困ることは、それが議論する話題としてはどんなにつまらないものであるかと云うことを、当人達が察してくれないと云うことだ。しかも、そのことを面と向かって指摘した場合でさえそうなのだから始末に負えない。


0019.
呑まれると云うこと、それは悪魔と取り引きをするのに似ている。取り引きの内容は何でもいいのだ。「或る目的を達成する為に取り引きをする」のではない。取り引きをすると云うこと自体が達成さるべき困難なのだいずれも極度の集中と何年もかけた下準備が必要となる。しかも、我が身を投げ出して試みてみても成功するとは限らないし、いざ成功したと判ってみれば、その時点で「私」などと云うものは既にどうでもよいものに成り果てている。魂を引き渡すのは死後などでは全くない。真っ当な生き方をする人間の魂の在り方から一歩境界を踏み越えた時点で、「魂」に相当していた或るものは、何か別のものに変容してしまっているのだ。
 従って実は「魂」の遣り取りなどと云うものはない。


0020.
何故ピュタゴラスは牛一頭を焼いて捧げる*必要があったのか? 何故彼等一派の教えは秘儀とされていたのか? この事実を無視し続ける限り、「世界を知る」と云う発想が如何に危険なものであり得るかと云うことは理解され得ない。

 *ピュタゴラスがかの定理の発見に際して牛を捧げたと云うこの話を、私は一体何処から聞き及んだのだろう? 生物を犠牲に捧げることを禁じたと言われる厳しい掟の存在を考えれば、この話は全く奇妙なものに思える。がしかし、/B>代償なき知、代価によって取り引きされるだけの知と云うものが如何に愚かしい事態を惹き起こすかと云うことへの警鐘として、私はこれを気に入ってしまっている。知識とは遣り取りされるものではない。それは何者かが何者かへ成ることである。そして、獲得されたものに対しては(———失われたものに対してではない———)必ず贖罪がなくてはならない。存在には存在を以て応えねばならぬのだ。
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