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世界と呼ばれる所与に対して自己を投企すると云う古典的なタイプの現存在に対して、自己が担われて在る、運ばれて在ると云う「被担性 Getragenheit」と云う在り方を指摘したのはオスカー・ベッカーである。ヘーゲルに対する(或いは、フィヒテに対する)後期シェリングの立場にも似たこの発想は、具体的な例としては、数学や美の体現としての芸術への適用が考えられているのであるが、故意にか(避けたのか居直ったのか)、或いは全く気が付かなかったのか、この取り上げ方から切り込んだ場合、これに則する現存在の在り方にはデモーニッシュな側面があると云う事実を見逃しがちになると云う問題が当然浮上する。

 これは何も新しい問題では全くない。これは「実存と信仰」に関する古典的な問題の一変奏に過ぎない(お望みなら更に遡っても一向に構わない)。が、教科書に載せても差し支えない、古来の御立派な思想家やら哲学者やらがそれに感じていたであろうジレンマと、我々がそこに見い出すジレンマとは同じものではない、と云う極く単純な事実は、哲学の輸入業者達からは屡々見逃されている嫌いがある。
 既に何度も論じ尽くされて来た問題を、我々自身の問題として考える際には、それなりの適応が———象牙の塔の住人風の発想で言えば「翻訳」「換骨奪胎」が———必要であることは言うまでもない。所謂「神」と云うものを最初から持たぬ日本人として(———この場合同じ「神」と云う単語を用いるからと云って、神棚に奉ってある様な「神様」を引っぱり出して来ぬように。そして引っぱり出して来ることすら思い付かなかった者はこの先は読む必要は無い。無駄である———)、我々はもっと得体の知れないものと格闘しなければならない。それはナチスやソ連を動かした神であり、戦車やミサイルを使っての顔の見えない報復合戦を続けさせる神であり、生体に完全な個体や完全な死などと云うものがあり得ないと教える神であり、プリューム・テクトニクスやグレート・ブラックホールを回転させている神であり………最早「神」と云う呼称が適切ではない、そんな響きは最早空疎なものでしかないと思わせる神である。

 我々は、或る未確認の条件を満たすことにより(———古典的なおめでたい見解によれば、「自由意志によって」と云うことになるのだろうが、残念乍ら私はそれを鵜呑みにする程信じ易い質ではないし、またそれを真実にしようと決断する程理想主義的でもない———)、或る悪魔と取り引きをすることが出来るが、我々がそこで当然感じるべきジレンマと云うのは、それが欺く神ではないかと云う、極めて古典的なものである。我々はこの事態を、自らが死を乗り越えると云うことによってではなく、死に自らを乗り越えさせると云う過程によって決着をつけることが出来る。
 私はこの事態を「被呑性 ひどんせい 」と呼び、そして私自身も現在の状況に照らしてこの在り方を正当なものとして「承認」する。が、私はこれを万人に推奨する積もりは全くない。更に言えば、私はこの存在性格を私以外の他の如何なる者によっても正当化される必要を認めない。何故ならひとつには、私自身の経歴が証明した様に、それは選択によって成されるものであり(———その際、そこに実存が「選択」として自由に関わっていたかどうかと云うことは、実はどうでもいいことである。誰が、或いは何が選択をするかと云うことは、重要ではあるがジレンマを惹き起こす問題ではない———)、このことは、万人が理性人に向いている訳ではないと云う現実と同じ様に、個人個人の資質に大きく依存するからである。またもうひとつには、私の選択した「呑者」が全くプライベートな性格のものであり、これを安易に一般化することは、これを裏切ることになるからである。従って私のこの説明に耳を傾ける者は、「何処かで偶々これを目にした名も知らぬ誰か」であってはならならず、それは自らの選択(———再度注意しておくが、自由意志云々はここではどうでもよいことである。これは行為の問題なのではなく、実存の存在性格の問題だからである———)によって耳を傾けることを選んだ者でなければならない(「君の様に」と黒森はここで念を押した)。
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